悪夢を見る。そのたびに『兄さん』『兄さん』『兄さん!』と叫んで起きる自分を起きて自覚する瞬間が一番の苦痛でありストレスであり毎夜毎晩僕を苦しめる悪夢の原因でもあり結果でもあり因果である。応報――僕は応報下されるだけの悪事をしてきたけれども応報ってこんな小さなことからチクチク責めてくるものなのだろうか。
振り子のように揺れるストラップを催眠の道具代わりに使って毎晩眠りにつく僕を兄さんは知っているだろうか。こんな風にストラップを使っているだなんて知っているだろうか。眠れない夜のなんと長いことを兄さんはどれくらい前から知っているのだろうか。知っているのにあんな風に生きていけることをどうして疑問に思わないのだろう。
人は自分が生きていることを疑問に思わない、なぜ?僕は僕が生きていることに謎を感じているのになぜ死ねないの。死ねないのではない、死なないだけだ。いいわけだろうか。それは死ねないのと一体どれくらいの違いがあるというのだろう。長い夜に謎説きをする以外にすることがあるだろうか。
「兄さん、どこにいくの?」
夜中自分の部屋から出てきた彼の足音をだから僕は正確に聞き取ることが出来たし、彼が苦笑したのを見て視線を俯かせる。
「お手洗いだが」
「本当に?」
わずかに訝しそうに目を細めるが、それはナナリーという妹に向けられるものとそっくりなようで実は違うけれどやっぱりそっくりな風だろうに装う微笑みをたたえて、
「眠れなくてな。起きているのなら、お茶に付き合ってくれないか」
ロロ、と兄さんの口元が動く。僕は僕だけの名で僕を呼ぶ彼の言葉を偽物だけれどもそれでも本物だと信じつつ嬉しく思って、思う僕が心がふるえたみたいだなんて馬鹿みたいだと笑う僕を嗤いながらお茶の申し出を受けた。
「やらなきゃいけないことはたまっているんだが、夜中は頭が働かないからな」
「生徒会の資料集めとか?」
「まったく!会長の発想はとっぴ過ぎる!」
そこで思い出して机を叩いて立ち上がった兄さんはハッとして「すまなかった、」と恥じて椅子におとなしく座ったものの、いかにミレイが今回企画していることが生徒会ひいては全校生徒に迷惑になるかをつらつらと語った。が、
「でも、兄さんだって反対しなかったんだから」
「それはそうだが。だが、また男女逆転祭りをやるだなんて……童話調だなんて、頭が痛くなる。大体どうして毎回予算が落ちるんだ」
エリア11の昔話を調べてさらに衣装とし使えるものをピックアップして……兄さんは頭を抱えた。
けれど、僕は笑った。兄さんが本当に嫌がっているわけではないのがわかるからだ。わかるほど、僕は兄さんの近くにいた。家族として、僕は、彼のことを、理解し始めている。偽りでも、それがウソでも、本当でなくても、僕が本当だと思うのなら僕は僕のちっぽけな小さな世界で僕は僕だけの本当を作り上げてそれを本当にすることが出来る。出来ると思っている。のだ、愚かなことに。
「兄さんが手伝うから、会長だって無茶を言うんだよ」
それは賛辞だったし、呆れ半分の言葉でも好意的なことばでもあった。兄さんは苦笑した。
「そうだな」
紅茶が半分になって、僕のティーカップを包む手は全く震えていないのに中の液体はさざ波を浮かべる。兄さんは最後の一滴を飲み干してしまうと立ち上がった。僕の分のカップも一緒に片付けてくれようとして僕の手と触れ合った、瞬間、彼はどうも不思議な顔をした。何かを一瞬怪訝に思ったような、――思い出したような、そんな顔を浮かべて、それからゆっくりと空気と一緒にそれを飲み込んで落としてしまった。
「さあ、もう寝ないと。明日も学校だろ」
僕は笑ってそれに応える。兄さんも弟の僕の笑みに応える。応えて、さみしそうな顔をした。
僕の長い夜は彼の眠れない夜と同じ時間を過ごしている。僕のうえにも兄さんのうえにも同じように降りかかる夜という果てのない時間。
兄さんも、罪を感じることがあるのだろうか。全てを忘れてしまって、僕のことを弟だと思いこんで、それでも心と頭の底にゼロという仮面で塗りつぶされた犠牲と悲鳴と、そうして――妹と。忘れてしまったくせに、彼の頭をまだ支配するのか。
眠れない夜の原因に僕がなれることはあるのだろうか。僕は、誰かの眠れない夜の、。



20080702『眠れぬ夜を。』