僕は弟だったのだから当然だけれども、兄さんの言葉は心のどこかを深くえぐって僕は意識を戻すのにかなり時間を要してしまった。僕はこんなにも兄さんのことが好きだったのかと、心のどこかで家族愛のはずの気持ちが変わっていくのを感じて――いいや、出会ったときからずっと僕のこの気持ちはそれ以上のもので、それに気付いてしまってさらに動揺した。 「どうした、ロロ?」 「あ、いや……でも、僕……」 でも任務だったから僕にはこの気持ちの持っていきようがわからなかった。告白してしまうことは嚮団に見張られているし僕がそもそも嚮団の人間だから無理だし、そっと気持ちを心の奥底に閉じ込めてしまおうと思っても僕と兄さんは近すぎた。 僕は兄さんが好きだったので、今のように肩をぽんと叩かれるだけでもそこから溶けて消えてしまいそうになった。 そんな僕にそんなことを言わないで。優しい顔をして、兄の顔をして、なんて残酷な言葉をこの人は吐くのだろう。ブリタニアをおびやかすゼロは、彼にぴったりだ、とロロは思って涙が出そうになった。しかもその涙はロロのからだや心や大切なものを根こそぎとかしてドロドロになったものが目から溢れ出したものに違いない。ただの塩水ではなく、なんとも塩辛いのはロロのたいせつな細胞を壊したものだからに違いない。 「何か、不満があるのなら仕方ないが。……会ってみるだけなら、いいんじゃないか?」 「でも、僕、今、そういうことにキャパを割ける余裕ないから」 「そうか?いい娘なんだが」 苦笑いして返すと、そう返ってきた。そんなにいい娘なら、自分が付き合えばいいじゃないかと悲しい気持ちになる。僕はかわりに書類にドッグイヤーを増やしていく。 「ルルが認めるなんて、私も一度会ってみたいわね〜」 「会長まで!やめてあげてよ、ロロ困ってるよ。ね、ロロ?」 はたとその声で現実に放り込まれた気がした。今この生徒会室には僕と兄さんふたりきりのような気がしていて、僕は不機嫌オーラをこの人に気付いてもらおうと躍起だったけれども、そういえばみんなもいたのだったと僕は今度こそちゃんと笑む。 兄さんはシャーリーの言葉に唇を尖らせた。 「だが……」 「それに、付き合うってそういうことじゃないでしょ!好きな人と結ばれてこそよ」 「おや〜?シャーリーが何か言ってますよ?」 「からかわないで!」 兄さんとシャーリーを交互に見てリヴァルがお手上げと笑った。 「まあまあ、落ち着きなさいって。でも、見ないで断っちゃうなんて勿体無いかもよ〜?」 ミレイの言葉に、僕は控えめに首を振る。 「あら。で、ルルのお眼鏡にかなった女の子ってどんな子なの!」 「会長も一度話したことがありますよ」 兄さんは人知れず得意顔だ。自分の恋沙汰にはとんと興味がないくせに、僕には彼女を紹介したいだなんて無茶苦茶だ。 兄さんの手が肩から離れて、ミレイに向く。僕はそれを目で追うことの方が、二人の会話に耳をそばだてていることよりも重要だった。僕の関心ごとは兄さんだけで、それ以上も以下もたぶんきっとないのに、仕事ですら兄さんに毎日を支配されているのに、これ以上何処に他人をいれる隙間があるというのだろう。他人にさけるキャパシティがない――本当のことだ。僕にはない。今、僕にはそんなもの存在しない。兄さんひとりですら要領オーバーしそうで怖いのに。 ――ショックだった。 ただただショックだった。一時の気の迷いだと思っていた兄さんへの思いもショックだったけれども、兄さんにとって僕はそれ以上でも以下でもない存在なのだと認識してしまったことの方がはるかに僕にとっては大きかった。穴がえぐられて心臓のある部分がドクドクといたみを流す。僕はここに生きているのだと感じたけれども、その代わりに制御しきれない痛みに泣きたくなった。どうすることも出来ない。僕は兄さんのなかにだけれどもこの痛みとともに溶けて消えてしまうことも出来ない。ここで生きているから、僕は消えることが出来ない。 「ああ、あの子!あの子なら、いいじゃない!」 会長が得心顔で僕を振り返った。 「確かに!」 反対していたはずのシャーリーもしきりに頷いている。リヴァルがうーんと腕組みしていた。 僕に『な?』と視線を寄越す兄さんに、一瞬殴って突き飛ばしてキスして殴られてしまいたい衝動に駆られたけれども、僕はゆっくりともう一度首を振った。 「僕、本当に今は無理。悪いけど、兄さん……」 「そうか」 なら無理強いは出来ないな、と兄さんはしょんぼり顔だ。かわいいかわいい弟に何かをしてあげたかったのに、という気持ちは充分僕にも届いているけれども、それはありがた迷惑というやつで、うっかり受け取ってしまうわけにはいかない。たとえその気持ちだけでもすごく嬉しくても、それ以上につらいのなら僕は受け取る必要がないのだ。だって、受け取れば、僕はどんどんもっと兄さんと遠い場所へ飛ばされることになる。今でもじゅうぶんこの距離が遠くて恨めしいのに、僕はもっともっと離れ小島に流された悲しみを味わうのだ。そこで溶けて消えてしまうこともかなわずに独りきりで兄さんを思って泣くなんて耐えられない。 兄さんのやさしさが僕を傷つけていく。僕を溶かすのに、溶かしっぱなしで僕は形が保てなくなっていく。僕は僕と言う存在の外観がわからなくなって、あやふやになって、明日になれば今日はどうやって兄さんと話していたとか過ごしていたとかただの生活の仕方からその中での接し方まで何もかもを見失って途方に暮れるのだ。毎日がそれのくり返し。僕はやっとのことで僕の形を今たもっている。 |
20080829『結晶化』