はじめて兄さんに口づけたときのことを僕はなんとなく覚えてる。
僕はある日問い掛けた。ふと、なんとなく尋ねた。
「兄さん、どうしてそんなに唇に力が入ってるの?」
とがらせてるわけではないけれども、記憶を取り戻した兄さんは固く結んだくちびるを前以上に開かせなくなった。元々おしゃべりというわけでもなかったけれど、それでも普通の人なみに話すのに、自分がゼロだと思い出した兄さんは口を開くことが極端に少なくなった。学校にいる間はいいのだ。演技なのか素なのかはわからないけれども、いつもと変わらない姿をしている兄さんは、けれど家に帰ってくると豹変する。何かを考え込む時間も圧倒的に多くなったし――それは当然なのだけれど――僕と接する時間も少なくなった。僕はそれを我慢している。しょうがないことだ、記憶を取り戻してしまったのだから、混乱するのも仕方ない。
けれども、そういうのと関係なく、僕のことを関係なく、兄さんは口を開くことをやめてしまった。ふと口を開けても、あわててきつく閉じてしまう。何かを恐れているかのようにぎゅっと引き結んで、そして僕に何かを話そうと口を開きかけたときでさえそれを諦めて口を閉じてしまう。僕のための言葉はそのまま兄さんのお腹の中に呑み込まれて吸収されて、僕に届くことはなくなってしまう。
僕はそれが悔しくて、だから聞いてみた。
「どうして?」
兄さんは面食らった顔をした。そして所在無げにそわそわとして襟を正してみて、僕の方を見てその後ろの花瓶に視線を移して、それからまた僕を見た。
「何か、吐きそうな顔してるけど、大丈夫?」
「そんなひどい顔してるか?」
「……だいぶ」
無理が溜まってるのだろうと思う。兄さんは額を軽く押さえると、気分は悪くない、とだけ答えてまた口を閉ざす。
「ほら、また」
僕は勇気を出して指摘してみた。兄さんは驚いた顔をして、そして溜め息をつこうとしてそれすら飲み込んだ。兄さんはその自分の無意識の行動にすら驚いた様子だったが、口を閉じる。
けれども僕がずっとそれを見ていると、観念したように口を開いた。
「何か出そうでな」
「?やっぱり、気持ち悪いの?僕、ついてるよ。トイレ行く?遠慮しないで」
「いや、そういうわけじゃ……」
兄さんは少し言葉を探して視線をうろうろさせていたけれども、僕は兄さんが何を言いたいのかさっぱりわからなかった。
「……何と言えばいいのか、わからないんだが。精神的なものだ。取るに足らないことだから、気にしなくていい」
「でも、」
そんなこと言われたらもっと気になる。プライドの高い兄さんが『精神が…』と自ら進言したことすら驚く。やっぱりよっぽど追い詰められているんだろうなと思った。
「平気なんだ。ジンクス……いや、まじないみたいなものかな。していないと落ち着かないだけで、だから口を閉じてるだけだ」
兄さんは自分でも説明出来かねて、それから溜め息をついた。
「こうやって、溜め息をつくと幸せが逃げるって言うだろう。それと同じで、なんか、こう、息を口から吐くたびに何かが出て行く気がするんだ。それが嫌で、話がしたくないだけだ」
「何か?」
それは幸せとか、幸福とか、そういうものだろうか。
「なんだろうな。よくわからないが。――また、記憶をなくしたくないだけかもな」
疲れたように笑うと、兄さんはぽつりと最後にそう付け加えた。
一瞬その意味を考えた僕は理解して無性に泣きたくなった。
僕にとって大切なものが兄さんとの日々なのなら、僕の命は兄さんの思い出が支えている。
兄さんにもそうやって魂に接していた思い出があるのだろう。それを知らない間に欠けさせてしまっていた恐怖とは矜持の高い兄さんをおおいかぶしてしまうほど大きかったのか。
口を開くたびに欠けていくものが目に見えるようで怖いのか。それほどまでの恐怖を、僕は知らない。想像は出来るけれども、絶対にそんなことは起こしたくないし、兄さんとの日々を失った僕はやっぱり想像できない。
「僕が、守るよ」
「……今度は、油断しない」
兄さんはきっぱりと言い切る。巨大な帝国の頂点に君臨する父にもう勝手はさせない、と、紫宝の瞳の中に強い光をにじませる。それはにぶく輝いて、くすませた炎を燃え上がらせる。
そして、また強くくちびるを結んだ。顎の下まで口の端を引っ張って、力強く、自分の決意を秘める。
(ああ、このひとは独りなのだ)
僕はそのとき直感した。いくら僕がどれだけ近くに居ても、誰が近くに居ても、兄さんは兄さんを守れるのが結局は自分しかいないと考えている。兄さんは誰も信用せずに、孤高の王として彼の世界に君臨している。
だから、彼は必死に、自分を守ろうと必死に口を結ぶのだ。自分しか自分を救えないから、外敵から守りに入る。
口を開くと兄さんは大切なものがすべてそこから溢れ出していくと信じていて、きっと自分でも馬鹿らしいと思いながらそれでも口を引き結ぶしか方法を知らないのだ。誰かに守ってもらおうだなんて露ほども思っていない。誰かに頼るつもりも毛頭ない。
僕はそれが悲しいと感じた。兄さんに同情して悲しいのか、僕を頼ってくれることのない寂しさが悲しいのかわからない。
僕はその引き結ばれて一の字になってしまって薄くなった口唇にふと背伸びして口づけた。
ひとりでしか口をふさげないと思っている兄さんを、悲しいと思って、口づけた。
それは見かけと違ってすごく柔らかくて、ああやっぱりこの人はひとりきりでは大切なものを守りきることは出来ないだろうなあと感じた。繋がれた箇所が温かいのは大切なものがやっぱりこの中に守られているせいなのだと思った。
僕もそれを一緒に守りたいと思ったから、僕は、もっと口づけた。僕がそれをふさいで、――出来ればそれを飲み込んで一緒に僕にも共有させてくれればいいのにと、もう一度もう何度も口づけた。
それから暇さえあれば口づけるようになった。




20080829『決壊防波堤』