黒く塗りつぶしていく地図をじっとルルーシュは見つめていた。
大理石の机に敷かれたテーブルクロスのように大きな地図は、けれどこの広い世界をほんの小さく縮小したに過ぎないもので、それを塗りつぶす作業は単調でつまらないものだった。
「……」
油性マーカーはキュッキュと音を出し滑っていく。無心で塗っていたルルーシュの小指の筋は黒く汚れていく。
黒の騎士団、とそう名づけたのはルルーシュだった。自分が行おうとしていることはどう大義名分をつけても正義ではないということはあの頃の自分ですらよく知っていたのだと思うと、何故思いとどまらなかったのだろうと時々不思議に思う。――踏みとどまっていれば、たくさんのものを失わずにすんだかもしれない。それを想像してなお守りたかった存在があり、それをルルーシュは今も救いたいと思う。けれどそうやって守られた最愛の妹は、果たして何を感じるだろう。力を得ればえるほど、ナナリーの理想の兄像から自分がかけ離れていくのを彼は止められなかった。
キュッキュと広い部屋に響くマーカー音は、ルルーシュの孤独をさらに浮き彫りにするようで彼は途中で飽きたようにペンを投げ出した。
世界地図の半分はすでに真っ黒に塗りつぶされ、それ全てが自分が制圧した土地なのだと思うと軽い眩暈を覚える。教科書でしか見聞したことのない見知らぬ土地を、ルルーシュはその手で、その力で、もぎとった。蹂躙した。そこに住んでいた何割かの見ず知らずの人間に確実に憎まれているのだろうと思うと吐き気がした。路頭に迷わせ、自分のように妹のように親を失わせ、手足の自由を奪い、命さえも盗んだ人間が少なからずいるのだと思うと泣き叫んで何処か知らないところへルルーシュは走って行ってしまいたくなった。
それを引き止めている。
それを、精一杯の力でルルーシュはここに今自分を引きとめている。
引き出しにしまったクロヴィスという兄を撃った銃――ルルーシュはその銃を捨てることが出来なかった――で、自分のこめかみに穴を空けてしまいたいのを必死に堪えている。
死にたい、と何度思ったことだろう。何かをなしえる前にそれに到達するまでに与えられる困難な障害物から逃れようとして死にたいと、もう何も考えたくないと、何度思ったことだろう。
けれど、その引き出しに鍵をかけて、自分を制しているルルーシュがいる。
震える手で、マーカーを握り、地図に黒い土地を増やしていくルルーシュがいる。
(……ロロが、)
何度も手洗いに駆け込み、弱った胃が消化できないものを何度も吐き出し、それでも毅然とゼロとして騎士団の前に立った日々――それを思い出すと、ルルーシュは苦笑する。ボロ雑巾と心の中で罵ったロロが必死にルルーシュの背を撫でていた手の感触を思い出す。大丈夫だから、僕が近くにいるから、何度もそう言われて、あの頃神経が逆立っていたルルーシュはロロに何度も何度もその度に罵声を浴びせた。ロロは悲しそうな顔をしたが、それでもルルーシュの傍を離れなかった。怒鳴った後にハッと我に返り理性を取り戻し、ロロに本心を隠して詫びるルルーシュにロロは『僕は平気』と首を振った。
(ロロが優しいのは当たり前だと思っていた)
他人の優しさは当たり前なのだとルルーシュは思っていた。ルルーシュは優しくなれなかったのに、ロロがルルーシュに優しくしてくれるのは当たり前だと思っていたし、そうでなければイラついた。それは自己中心的で我侭な振る舞いでしかなかったのに、ルルーシュはロロが裏切りを行ったのだからと言い訳をして自分を改めなかった。
(それでも、ロロ、――お前がいたから。お前がいるから、俺は頑張れる)
あの頃も、これからも、ロロがいたから、ルルーシュは自分の目的のために前へ進もうと思える。たとえ、どんなに困難でどんなに逃げ出したくなっても、達成するまでは決して諦めない。
ナナリーに優しい世界に。それはきっと、誰もに優しい世界だ。ナナリーが望むのはきっと自分の幸せだけじゃない。それを叶えてやりたい。きっと強く生きれるだろうルルーシュの最愛の妹に、せめて大人の勝手な都合でついたハンディの分だけ優しい世界を。それだけのためにルルーシュは今も明日も頑張るのだ。
それはロロにも優しい世界になるはずだった。ルルーシュの可愛い弟。最愛の弟。ルルーシュを一番案じてくれたたった一人の人。不要だと実の親に言われた自分を必要だといってくれて命をかけて、守ってくれた人。彼が自分を庇って死んだことで皮肉にもルルーシュは自分の未来をしっかりと見据えることが出来るようになった。
(俺は、まだ、死ねない)
たとえ、どんなに辛くても困難でも無理でも倒れそうになっても、ルルーシュはまだ立ち止まれない。ロロが守ってくれた命に、たったひとりこの世でたったひとりでも自分を必要だといってくれた人のためにルルーシュは自分の信念を曲げることは出来ない。
(待ってろ、ロロ)
次に二人が会うときにはきっとこの世は少しだけ他人に優しく出来る世界になれる。ロロの無償の些細で大きな優しさをまるでお手本にしたような、そんなルルーシュが一番幸せを感じた世界に命をかけてしてみせる。
(――待ってろ、ロロ)







20090102『マーカー』