兄が差し出してくれる手が大好きだった。薄くて、白くて、なのに温かくて、――人間は皆生きてるのだと思った。
ロロにとって人とは、外に存在するわけの分からないものだったから、自分と同じように感情があるだなんて考えたことがなかった。それを察することに意味を感じなかったし、存在することすら理解していなかった。ロロの世界にはただロロだけがいて、ロロは世界の上から下される命令だけをただこなしていけばそれで『生きている』ということだった。ロロの世界でただひとり生きているのはロロだけだった。――ロロだけが、ロロに喜びを悲しみを痛みをも全てあげることができた。逆に言えば他人はそんなものをロロに与えることがなかったのだ。だから、知らずにずっと生きてきた。知らなければそれだけだった。ロロはロロの世界でただひとり生きて死んでいくだけだった。その始まりも終わりも、ただただロロの中に存在するだけでロロには興味が持てなかったに違いない。



「……兄さんっ、その傷!?」
「……あ、ああ。平気だ」
でも、となおも兄に近づき右足から血が流れているルルーシュの手を取ったロロの方が真っ青でとても痛そうな顔をしていた。
「何だ、お前の方がひどい顔をしてるぞ」
「だって、」
だって、死んじゃったら、とロロは目を見開いて傷口を見つめている。
「……こんな傷で死ぬものか。転んだだけだ。縁起の悪いことを言うな。――ところで、どうしてお前こんなところにいるんだ?」
今日は理科の実験じゃなかったのか、とルルーシュは足にハンカチを当てるロロの頭を小突いた。
「窓から兄さんが転ぶのが見えたから、僕、いてもたってもいられなくて……」
バカか、と突っ込む気も起きずに、ルルーシュはロロのふわふわの頭を力なく撫でた。ロロは一年中こんな感じだ。授業中も前後も関係なく、ルルーシュが何かをすると必ず何処かから現れる。我が弟ながら不思議な奴、と最近ではルルーシュの方が自嘲の笑みを顔に浮かべるほどになった。
「サボってばかりいて、留年しても知らないぞ」
「大丈夫。僕は兄さんの弟だから。……染みるかもしれないけど、ちょっと我慢してね」
何処から出したのか消毒液をルルーシュの足に吹きかけるロロに、ルルーシュは参ったと降参した。アシュフォード学園特有の豪奢な彫りが入った蛇口に掴まって、ロロが消毒するのをじっと見ていた。遠くではルルーシュのクラスがまだリレーの練習を行っている。ルルーシュがそこにいてもいなくても、体育の授業は滞りなく進んでいくのだと思うと、昔何処かで感じたことのある疎外感を覚えた。
(……この感じ何処かで……?あれ?)
その感じを追いかけようと思索すると突然靄がかかったように何も思い出せなくなった。どうしたんだろう、と不安になる。
「兄さん、どうしたの」
「……あ、ああ」
ロロの真っ直ぐな瞳に覗き込まれて、ルルーシュははっとした。何かを思い出しかけたような、何もなかったような、不思議な気分に包まれて瞬くしかなかった。
「やっぱり、痛いんじゃないの?大丈夫?」
「平気だ」
(また、格好悪いところを見せちゃったな)
自分の傷よりもルルーシュはそっちの方が心配だった。ロロにいつもいいところを見せたい、凄く自慢の兄でいたいとは思うものの、体育は得意ではなかったから、せめて一位とまではいかなくても転ばないで完走したかった。体育祭のときはきっと頑張ろうとそう思う。
「……死なないでね、」
そう、ロロがぽつりとでも大切なことのように付け加えるので、ルルーシュは眉をしかめた。
「こんな傷くらいで死ぬものか」
「そうなの?」
「……お前、大丈夫か?」
「僕は、平気だよ。僕はどこもケガしてないもの」
ロロはルルーシュの言葉にほっとしたような顔を浮かべた。こんなかすり傷くらいどうってことないのに、とルルーシュは思う。
ロロは時々大袈裟すぎることがあって、ルルーシュはその度に面食らってしまう。包丁で指先をちょこっと切ったルルーシュが本気で死ぬのではないかと救急車を呼びかけたのは二日前だし、今日だって傷口を見せるまでガタガタと震えていた。ロロの方が病気のようだ。
そんなロロの頭をそっと撫でてやる。撫でてやると気持ち良さそうにした。まるで猫のようだ。兄さん、と微笑う大切な弟のようだ。


ルルーシュは残像を焼き付けたまま瞳を閉じた。



「…………いたい」
心の中でぽそりとルルーシュは呟いた。あの日よりもずっと痛い。ロロがいた日々よりもずっと痛い。右腕に刺さったナイフを抜いてC.C.に渡すと、彼女はふっと笑った。
「何だ、死にそうな顔をして」
「こんなことで死ぬか」
「でも、お前真っ青だぞ」
「気のせいだろう」
それより資料を渡せ、と左手を差し伸べるとC.C.は珍しく困ったような顔をした。ルルーシュはそれを見ながら、ああロロのような顔だと思う。けれど違う。ロロはいつもルルーシュが死ぬのではないかと心配で堪らない顔をしていた。
「……なんだ、深いのかと思ったら。案外見掛け倒しだったな。かすっただけか。そのナイフは服に刺さってたのか?男の勲章にもならなさそうだな」
「放っておけ。どうして俺が怪我をした方が良いような口調なんだお前は」
「不快だな。今、私とあいつを比べただろう?」
「何のことだ?」
マントが切れて血まみれの腕をC.C.が不器用ながらも包帯を巻いていく。ルルーシュはそっぽを向いた。
「あいつと私を比べたって仕方ないぞ。あいつはもういない」
「わかっている」
「わかっているのなら、どうしてそんな顔をする?」
「……」
言い合いをしてもしょうがないとルルーシュは口をつぐんだ、というよりも何事かを考えて口を閉じた。C.C.は包帯を巻きとめると、傷口をわざと殴ってやった。
「何をするっ」
「自分の頭に聞いてみろ。自慢の脳なんだろう?」
ルルーシュは不機嫌そうな顔をした。
ルルーシュが脳にロロのことを聞くと、一番に思い出してしまうあの冷たさを、ルルーシュは無意識のうちにとても避けたいと思っていて、何だかんだと思い出させようとするC.C.に苛苛した。
ルルーシュを庇ってロロが死んだのはもう二週間以上前のことだ。あれから目まぐるしく変わった色々なことにルルーシュ自身がついていけてない。
いつもルルーシュの傷口を心配そうにさすっていたあの白くて温かくて柔らかだった手が、段々と冷たく固くなっていくのを感じながらルルーシュにはどうすることも出来なかった。ロロのように時間を止められるギアスだったらどんなに良かっただろう、けれどそのギアスを使ったがために命を落としたロロのことを思うとそんなことを言ってはいけないような気がした。
傷を作るたびに、ああもうロロはいないのだと、ルルーシュは泣きたいような叫びたいような気分になって、今こそ死にそうだとそう思った。けれど、ロロはもういない。
「何をあんなに怖がっていたのか、今ならわかる気がするな」
ぽつりと呟いた言葉にC.C.が振り返ったが、ルルーシュは特に気にも留めずに歩き出した。
ロロはあまりにも他人の死を見すぎてきたのだろう。ルルーシュよりもたくさんの人間が死ぬところを見てきて、だからこそ死んでしまったらもういないのだと、人間は死にやすいのだと恐れていたのだ。
小さな頃から暗殺業に親しんだロロ。――あの小さな手でたくさんの大人の命を奪うことはきっと簡単なことだったのだ。だから、ルルーシュが小さな傷を負っただけで右往左往した。どんな傷でも致命傷になるのだと考えていて、けれどロロは自分の命が消えることに何の疑問も持っていなかった。
ロロが助けてくれた命は一体いつまで持つのだろう。些細なことで壊れてしまうのは、他人だけではないのだとルルーシュは右腕をさすりながら思う。
あの頃こんな傷を負ったらロロは失神しただろうなと、くすりと笑おうとして失敗して嗚咽が漏れた。







20090105『トーチ・リリー』


色々辻褄が合わない時間軸ですが、見逃して下さい。ごめんなさい。
正式名称トリトマ。