「こわいものなんて、あるの?」
僕が兄さんに問いかけた言葉は、何だか闇の中を彷徨ってしまった。兄は、僕の体をぽんぽんと撫でていた手を止めて、どうだろう何が怖いだろうと天井を見上げた。
 一緒に寝るのも、もう何十回目。本当はいちいち数えてる――今日で四十九回目。僕は男同士のセックスが存在するということを知っていたけれど、生憎兄さんは知らなかった。おやすみのキスも家族以上のものではないし、だから兄さんが僕のことをそういう対象に考えてもいないのだったら僕もそれでいいなと思った。だって僕は弟だから。それでいいのだ。
 嚮団の監視カメラはいたるところについていて、今も誰かが僕たちを監視しているのだろうけれど、誰も僕をからかってこないのは、僕が仲間≠ナすら何の抵抗もなく殺してしまえることを知っているからだろうと思っている。だから今夜ここで僕たち兄弟がいきなり情事を開始して燃えるようなキスをして恥ずかしくなるような喘ぎ声をあげたって誰も特に何も言ってこないのだろうと思うと、それはそれで何だか虚しかった。空気。これって空気って言うんだ、知っている。僕の存在はギアスという一点でなくてはならないけど、特にいなくても構わない、補強品はいくらでも作れるし、ターゲットに入れあげてしまっている僕なんて嚮団は本当に不要だろうなと思った。
 僕には怖いものがある。それもたくさんあった。多分、僕は嚮団に依存しているのだと思う。生きている記憶全てが全て、嚮団のためにの一言で語れるのだから、それは当たり前なのだけれど、とうの嚮団は僕をあまり必要としていないのではないかと不安になって時折すごく怖くなった。僕が嚮団の人間を何人殺しても、時々全うな先輩や後輩が僕にそれはやり過ぎじゃないかと注意してくるだけで、特に上から怒られたりもしなかった。それを人は『特別待遇だ』というけれど、本当は違っているのではないかと思う。特に必要でも不要でもなくて、いたら楽チンな少年で、いなかったらそんな奴いたの? 資料に載っていたね程度の人間に片付けられるせいだからではないだろうか。
 人間なんて後から後から生まれて死んでまた生まれてくるのだから、その中のひとりにしか過ぎない僕だって、そんなことくらいわかっているのだから、それは当たり前なのだと言われれば『そうですか』と頷く準備というものは出来ている。
 殺した人間の顔と名前と年齢と家族構成と、その他諸々を全て記憶しているのかと問われたら、はじめの顔からしてもう記憶の影でおぼろげな感じです、と答えるしかない。だから多分いつか僕が殺されたときも――何故だか、他人に殺される末路しか思いつかないのは、自分が人殺しに関わりすぎたせいだと思う――きっとその相手は悔しいことに僕の顔もそのときのコードネームすら全て忘れ去ってのうのうと生き続けるだろうと思う。それってすごく怖いな、と思う。
 それでも、そんな何もしてくれない嚮団のために、僕は今僕に優しくしてくれているこの兄を殺すのだろうし、それを特に疑問に思わないだろうし、ああ悲しいなと思ったって、嚮団に必要とされるためにきっと頑張るのだし、僕には僕の生き方ってそれしか用意出来ないのだし、そんな自分が怖いなと思った。
 「うーん、難しいな」
僕を撫でていた手を僕は掴んで、そう、と答えた。それは夜目にも白く、たったひとりのすべすべの人間の手だった。
 兄は昔、きっと記憶をなくしていて思い出すことも困難だろうけど、皇位継承権を剥奪されて、ブリタニアから追い出されて、母を失って、妹を守りながら何を思っただろう。僕はそこが聞きたかったのだけれど、皇帝のギアスは強烈だろうし、思い出したところでこの人のためにはならないことを重々承知していた。
 「こわいことなんて、ないの?」
ひとりきり強大な国家であるブリタニアに抵抗した弱小な人間にはもしかしたら怖いという感情そのものがないのかもしれない、と思った。それってすごいことだと思う。だったら見直してしまうし、コツを聞きたいなと思った。
「……あるよ」
「そうなんだ。教えてよ」
あるのか、と思った。なんだ、普通の人間なのか。こうやって怖いものに夜中ひとりで怯えて、手探りで共に歩める人を探して、居場所を追求して、こうやって誰しも生きて一生を終えていかなければならないのか。それって本当に怖いことだ。
 「笑わないか?……ロロがいなくなることが、今は一番怖い」
「え?」
「一番怖いよ。二人きりの兄弟だしな。一番大切なものだ。――何だ、変な顔をして。お前が聞いたんだろう。……おい、泣くな。そんなに変なことを俺は言ったか?」
「……」
頬を滑り落ちる感触とそれを拭う感触に僕は戸惑った。ああ僕は僕の居場所は、移りつつあるのかもしれない。





20090210『引越し』