落ちていた。だから拾って帰った。――それだけだ。



















 ふわふわのバスタオルを押しのけると、そのまま脱衣所の開いていた扉をくぐり抜けて、少年は全裸で廊下にぱたぱたと飛び出した。
「おい、こら!」
まるでアーサーのような動きに、慌てて追いかける。彼は部屋中を濡れた髪からぽたぽたと水滴を落としながら駆け回った。何かを探しているようだ。
「こらっ、そんな格好で出たら風邪引くぞ!」
「イタッ」
両手でがばり、と子供の頭つかまえると、彼は声を出した。ばたばた、動かしていた足も止めた。そんな強く抱きしめてないぞ、と、ルルーシュがおそるおそる頭を撫でると、後頭部がぷくりと膨れ上がっていた。
「……っ」
「どうしたんだ、このたんこぶ?」
引きずって脱衣所に戻しながら問うが、彼はまた声を押し詰める。
「痛いのか?」
ルルーシュの問いに頷く。シャンプーのときには気付かなかったが、お湯につかったことで少し膨張したらしい。
「転んだのか?」
少年は少し考えてから頷いた。
「いつ?」
「……お兄さんと、会う前」
ぼそり、とルルーシュから目線を外しながら答える彼にルルーシュは、あああの道路に寝ていたときか、と思い出して、そして両耳をタオルでつかみながら顔を覗き込んだ。
「もしかして、ふざけてたんじゃなくて、気を失ってたのか?」
こくん、と彼は頷いた。ルルーシュは合点がいったと、ついでに丁寧に耳を拭いてやる。
「でも、どうして? 友達と遊んでたのか?」
「……」
彼は答える気がないように、また目線をずらす。ルルーシュは、ちゃんと目を見て話しなさい、と白いほっぺたをこちらに向かせた。ぷくっと温かいそれに、ロロを一瞬重ねて切ない気持ちになった。
「……お兄さんには、言えない。じゅーよーきみつ」
「重要機密? 何だそれは?」
小さな子供に似合わない感情をそげ落としたような言葉と、秘密だという言葉にルルーシュの脳が刺激された。むくむくと好奇心が湧く。
「どうして言えない?」
「いっぱんじんにはひみつ」
「ほーーーーお」
俺を一般人だと、とルルーシュはにこりと笑いながら腹のうちでそんなことを考えていた。けれども、もしかしたらこれもこの少年の遊びのひとつなのかもしれない。思えば、ルルーシュも小さい頃、スザクと暗号を作ったりしたものだ。
「じゃあ、俺と秘密基地でもつくろうか」
「いりません。きち、はぼくたくさんしってるもん」
「何だ、かわいげがない奴だな」
「『かわいげ』?」
「そうだ、お父さんやお母さんによく言われないか?」
「……」
彼は黙り込んだ。ルルーシュは何か悪いことを言っただろうかと、とりあえず笑顔を顔に貼り付ける。
「そうだ、お前、名前は?」
「なまえ?」
「そうだ。何て呼べばいい。俺は、ルルーシュだ」
彼は小首を傾げて、
「きめられた名前はありません」
「は?」
「いつも、ちがうから、わからない」
と答えた。ルルーシュは眉根を寄せる。
「名前だぞ?」
彼はわかっています、と頷いた。番号ならあるけど、と答えた彼にルルーシュは絶句した。
「……へんなことですか?」
「変、……変といえば、変だが」
「へんなんですね。名前って、ふつうはいつもあるもの?」
「そうだな。いつも、変わらないであるものだよ」
少年は少しだけ考えて、ルルーシュの目をじぃっと見ていた。ルルーシュは何かを言わなければ、と思う。ピンク色をしたうさぎのような瞳は、弟を思い出す。
「じゃ、じゃあ、俺がつけてやろう。ロロ――なんて、どうだ?」
「……ろろ」
「そうだ。俺の、大切な家族の名前だよ」
「たいせつな? かぞく?」
「ああ。もういないがな」
そう言って、くしゃくしゃと髪の毛をぬぐってやる。

 他にないのだから仕方ないと、ルルーシュのパジャマを少年に着せてやった。乾くまでの我慢だ。
「お兄さん、これ、大きいよ」
「『兄さん』って呼んでごらん」
どうせこの少年の遊びなのだろうとルルーシュは思う。秘密基地や秘密の暗号や、悪の手下や正義のヒーローやそんなものに無駄に憧れてなりきる年代なのだと思う。それなら、付き合ってやろうかなと思った。そして、付き合ってもらおうかなと思った。彼は本当にロロに生き写しで、彼をロロにすることに何の意味も見出せなかったけれもど、もしかしたらあの日以来ルルーシュの胸から欠けてしまった何かを埋められるかもしれない。
「……いいですよ、『兄さん』」
「……やっぱり、いい」
言われたとおり従順にそう呼ぶ子供に違和感を感じて、ルルーシュは子供の頭に手を置いた。くしゃくしゃと撫でて、苦笑した。似ているから、なおさら、自分のことを呼ぶ声のトーンが違うことに気付いてしまう。自分を慕ってくれていたらしいロロはもういないのだ、と、再確認をさせられた気分になって、何となく少年の頬っぺたをつねってみた。
「ほら、ごっこ遊びはもうやめて、洗濯が終わる前にお家を教えなさい。もういい時間なのだから、帰らないと」
少年はぷいっと顔をそらすと、リビングの方に走って行ってしまった。ルルーシュは溜め息をつく。帰りたくないのだろうか、――ありえる気がした。先ほどから両親のことや家のことを尋ねても、黙っているか、見当違いのことを言うだけだ。
(本当に何処かの機関の子供とか?)
まさかな、とルルーシュは足拭きマットを片付けて、乾燥機のスイッチを押した。けれど一度ルルーシュの頭をそれが支配すると、なかなかその思考から抜け出せない。もやもや、と今はない嚮団を思い出した。
「……」
自分が壊した嚮団と、その中にいたちょうどあの年頃の子供たち。ロロは何事もなかったような顔をしていたけれど、実際はどうだったのだろう。もし自分がアッシュフォード学園に小さな頃から通っていて、ミレイに暗殺をしろと命じられて、実際にしていたとしても、自らアッシュフォードを潰し、級友や、慕ってくれる後輩を殺して、それで何も感じずにいられただろうか。今さらそれは憶測や妄想の域を出ないけれども。
 ルルーシュがリビングに向かうと、子供はちょこんと椅子に座っていた。お行儀よく何かを待っている様子に、そうだったとルルーシュはお菓子を出してやる。
「そんなものばかり食べていると、体に悪いし、太るぞ」
「……」
お菓子とジュースと、与えたのはルルーシュなのに、そんなことを言ってみる。目が会うと、彼は美味しそうに笑った。しょうがないので、
「夕飯はグラタンでいいか?」
と問うと、彼は頷いた。
 ルルーシュが料理している最中、いつの間にか少年はルルーシュの後ろにいてエプロンを引っ張っている。
「こら、危ないぞ。離れてなさい。向こうで待ってろ」
「……」
「何だ、やってみたいのか? それとも味見か? ほら」
口の中に茹でて塩をふりかけたばかりのマカロニをふーふーして放り込んでやると、彼は美味しそうに頬張った。
「上手いのか?」
料理の腕は自慢ではないがそれほど得意ではないと思う。それでも彼は頷いた。もういっこ、とねだって手を伸ばすのを、ダメだと言ってザルを上に持ち上げる。小さな少年はルルーシュの背には敵わないのを知りながら、背伸びをしてバンザイをして跳びはねた。
「だーめーだ! ロロ、ほら、向こうで待ってなさい。すぐに出来るから」
言ってから、十秒後にしまったと思った。つい、ロロ、と呼んでしまった。けれど彼は少し考えてから、しょうがなさそうに頷いて、椅子に納まった。
 それから、オーブントースターにグラタンをしまって、スイッチを押すと、ルルーシュは丁寧にダイニングの机を拭いた。いつもはどうせ一人だけだとここで資料を繰ったり書き込みをしていたせいで随分汚れてしまっている。そう言われてみれば、きちんとした料理を作るのも、食べるのも久しぶりかもしれない。そう思うと、ルルーシュのお腹が鳴った。
「兄さんも、何日か食べてないの?」
「ん? いや、別につまんではいるが。ロロは、食べてないのか?」
少年は指折り数えて、
「昨日のひるから、えいよーざい呑んでない」
と当然のように答えた。特にいつもどおり、と言った様子に仰天する。
「栄養剤?」
「おくすりみたいなのです。おいしくない」
「……両親に食べさせられるのか?」
「ううん、しょくいんのひと」
ルルーシュは言葉を失った。その様子に、何か変なことを言っただろうかとまた彼の顔が心配そうになった。






200900224『tune.3』