生きることが、難しかった。簡単だった頃は、とうに過ぎた。ゼロ、あなたを監視する役目を僕が負ったこと、それはあなたにとって勝算の架け橋のひとつになってしまった。嚮団は僕のことを、最後の最後まで結局わかってくれていなかった。僕は、それが悲しかった。
「……ゼロ、」
ゼロ。数字の0。黒い装束を着た東の果ての国の反逆者。イレブンの人間ではないことに、噂を知っていた僕は驚いた。
「……兄さん、」
記憶を失い、僕の前に現れた。いいや、僕が彼の前に突然現れた。それなのに何も疑わずに、僕を『ロロ』と呼んで笑ったその顔が印象的だった。最初彼は、僕に笑いかけて、それから立っている僕にいささか疑問を持ったらしい。
『座っていなくて平気なのか?』
僕に最初にかけられたいたわりの言葉は、ナナリーへのものだった。
『どうして?』『いや、だって……』『僕、どこも悪くないよ、兄さん』『そ、そうだよな……。いやでも。いや、……そうだな、俺がどうかしていた』
拭えない違和感と、それから半月間兄は戦った。十数年の習性はそう簡単に拭えるものではなかったらしく、その度にいちいち僕はバレるのではないかと少しドキドキしながら兄に僕は五体満足であることを告げなくてはいけなかった。兄の不思議そうな顔が、僕は気に入っていた。
兄に、勉強を習って料理を一緒に作って、彼の、好みを知って、人間性を知って、それから、何を知っただろう。
シャーリーを知って、ミレイ会長を知って、リヴァルを知って、生徒会を手伝って、それから。
「ゼロ……兄さん……」
イレブンでの日々は瞬く間に過ぎた。お花見をして、新緑を愛でて、泳ぎに行って、シャーリーもミレイもリヴァルも兄が好きで、だから弟としての僕にとても良くしてくれた。そのうちに、その『好き』という感情が、三人とも別々のものなのだと気付いた。好ましい、言葉にすればこれだけだけれど、シャーリーの瞳は僕には恐かったし、ミレイの目は悲しくなった。恋をしている彼女達の両目を僕は追って、いつしか僕が兄を追うようになった。
嚮団にいた頃、黙々とこなしてきたものが、こちらにはなかった。アッシュフォードで、自由を体験して、こんなにも息が詰まるものなのかと少々驚いた。学生は学園という世間から切り離された楽園のようなところにいて、そこにいる生徒達は外の世界を知ろうともせずに生きていた。僕はそれを知っていたから何だかいささか居心地が悪くて、どうしたらいいのか困ってしまった。教室内での会話についていけるはずも、ついていく気も、始めからなかった。
そんな僕を、兄は心配していた。
『お前は少し、周りより大人びてるのかもな』
ある日、諦めたように、彼は僕にそう言った。クラスの懇談会には出ずに、兄と夕食をとると僕が言うと、そうかと少しだけ寂しそうな嬉しそうな表情をした。
『兄さんだって、クラスの友だちと遊んだりしないじゃない。いつも生徒会か、それがないと早く帰って来ちゃって』『それは……』『僕達、似たもの兄弟だね』
さらりと言ったけれど、僕はそれを少しだけドキドキしながら言った。兄は、僕の頭に手をのせて微笑った。
『そうだな』
血が繋がってないのに、似ているところがあるなんておかしくて、僕はその夜ひとり泣いた。
嚮団の監視カメラから隠れて泣いたけれど、きっと音声が僕の啜り泣きをとらえていただろうに、誰も何も注意さえなかった。僕は、それが少し寂しかった。
嚮団が、きっとあの頃、一言でも、『兄を好きになるな』と僕に命令しさえすれば、僕はきっとそれをまだ忠実に果たそうとする部下であろうとしただろうし、僕が本当に必要ならば嚮団はそうするべきだった。
それなのに、嚮団は何もしなかった。僕は、それが悲しかった。
嚮団にいた頃、僕の心臓は時々止まりながらも、規則正しく動いて、体を動かして、毎日をただ淡々と生かしてくれた。僕はそれが懐かしくてたまらない。
あの頃、僕の脳はいかに早く言われたとおりのことを出来るかだけを考えて、目はただ僕の視界を広げるためだけにあったのに。
ゼロ――兄さんは、何を思ってこの名前を自らに課したのだろう。
今ならわかる気がするんだ。ずっとゼロでなくちゃならなかった僕の気持ちが、溢れ出して、嚮団を裏切ってしまいそうなこの感じに、嚮団にいた頃の自分を必死に思い出すこの感じに、あなたがこの名前をつけたときの、その覚悟を僕は知れそうな気がするんだ。
忘れてはならないものがあったんだね。決して他の気持ちに揺るがされてはいけないほどの覚悟があったんだね。それを忘れては、いけないと思ったんだね。
僕のように恋愛なんかで、そんなものを動かしてはいけないと、そう……思ったんだね。
それを実行できるあなたが、とても好きです。







20090419『ゼロ』