上京が決まった。
夏のはじまりのことだった。



















 「あ、兄さん、蝉が鳴きだしたよ」
「ああ、本当だ」
ロロにとっての夏のはじまりは、蝉の声がうるさくなる頃のことだった。今年はどういうわけか蝉の鳴き声がまったくといっていいほどしなかった。もしかして死に絶えたのかと不安になってルルーシュに一週間前からしつこく尋ねていたロロは、嬉しいというよりも毎年の風物詩にほっとした。。はじめの方は『コンクリート化した結果だろ』と冷静に答えていたルルーシュも、ロロが、『えー、じゃあ蝉は外に出れないの?可哀相だ』という言葉を聞いてから気になっていたようだ。地方とは言え、土のあるところを探す方が難しくなってきているこのご時勢。山は毎年これでもかと住宅街に変えられていくし、海は排気ガスを纏わせる自動車で夏がくるたびに埋め尽くされていく。
 「死んでなかったんだね」
「死滅するわけはないだろ」
「そんなこと言って、自分だって心配してたくせに」
「ふんっ。蝉ごときで泣きそうなお前の方がどうかしてる」
へへ、とロロは笑う。言葉はツンケンしていたって、ルルーシュとロロはいつだって同じことを思っているのだ。本当の兄弟じゃなくたって、こうやって同じように蝉を心配している。
 二人で海岸線に沿った道を帰宅する今日は終業式だった。中学に通っているロロと、地元の高校に通っているルルーシュは同じ時間帯に帰れることはそうないから、昼前に終わるこの夏休み前の一週間はロロにとってとても至福だった。
 こうやって隣同士で歩くと兄の方が身長は高いが、いつかは追いついてやるとロロは思っている。ルルーシュのさらさらの髪の毛の生え際、頭のてっぺんを、上から覗くことがロロの小さな夢だった。夢はたくさんあるけれど、これが一番叶いやすそうだなとこっそり思っている。そのために牛乳を毎日給食のほかに一パック飲んでいるのだ。腹痛という代価を払っているのだから、叶ってくれなくては困る。
 ふとガードレールから見える海を見て、ロロは呟いた。
「もう、海に遊びにきてる人がいるんだね」
「こんな田舎にわざわざ来なくてもいいのにな」
「本当だよね。毎年毎年、みんなよく飽きないなぁ」
「むしろ、都会の暮らしに飽きてるんだろ。何もないから」
ロロはそうかなぁと首を傾げた。ロロはこの小さな田舎町を出たことがない。漁師業と観光だけで成り立っているような場所で、海が綺麗なところ以外なんの楽しみもないところだ。けれどルルーシュは違う。ルルーシュは元々、東京に住んでいた。方言はない地方だけれど、イントネーションもやっぱり他の友達とは違って綺麗なルルーシュにロロは憧れていた。背筋をピンッと伸ばして歩くルルーシュは綺麗だし、頭もいい。――都会に憧れているロロにとって、ルルーシュは『都会』の夢そのままだ。みんなが着ている制服もルルーシュが着ると輝いて見えた。
 「兄さん、東京って、どんなとこ?」
「……空気が汚いところだよ」
「そうじゃなくて」
「人口や総面積の話か?なら、」
「もういい。それより、今日の夕飯何かな!」
「自分から聞いておいて。……ロロ、夕飯の前に、おじさんに通知表を見せないとな」
にやりと仕返しのように口の端を上げたルルーシュの言葉に、ロロは、ゲッと呟いた。――中学三年、受験の年。ロロは頭が悪いわけでは決してない。けれど、中学に入ってから部活にばかり夢中になっていた。そのしわ寄せがここにきて確実にテストに出始めた。がた落ちの成績に親は何と言うだろう。きっとルルーシュの5ばかりが並ぶ綺麗な通知表がさらにその悪さを確実に下げるだろうと思うと涙が出た。
 「うっ、いや、でも……」
「テスト勉強見てやるって言っただろ」
「だって……」
ロロはしゅん、と小さくなる。ルルーシュはそう言っているが、もちろん教えてはもらっていた。けれどもルルーシュの一挙一動があまりにも凛としていて綺麗なものだから、ついそっちに目がいってしまって結局毎回集中できなくて終わるのだ。それで仕方なく、今回の期末は友達の家で友達と一緒におこなった。けれど、結果は出なかった。
「やっぱり、兄さんと勉強した方がわかりやすいや……」
わからないところにすぐに完璧な答えをくれるルルーシュ。時々頭が良すぎてついていけなくなったり、綺麗な手先に目を奪われるけれど、山を張ってくれるし、それはぴたりと面白いくらい当たる。中学に入ってからずっとそんな調子だったから、自分の山勘だって当たると思い込んでいたけれど、ところがどっこいそんなことはなかった。
「当たり前だろう。お前のためにきちんと統計だってとってるんだから」
「そうなの?」
「あっ、いや、……俺のときにとったやつを、少しずらしてるだけだから、そんな手間ではないぞ!」
「すごいなぁ、兄さんは」
ロロが見上げると、ルルーシュは顔を赤くして、早足で歩き出した。待って、と追いかけながらロロは笑う。しあわせだな、と思った。



 「ただいま、ナナリー」
「ただいまぁ!」
家に帰るとすぐにルルーシュは妹の部屋に直行した。ロロもあとをついていく。両親はパートと船の調子を見ているようで外出中だった。
 妹をひとりっきりで家に置いていったのがすごく心配だったのだろう。ナナリーの姿を部屋のベッドの上に見つけたときにルルーシュが知らず溜め息を漏らしたのをロロは見ていた。
「調子はどうだ?」
「お帰りなさい」
「あ、ノックしなくてすまない」
「ただいま、ナナリー。これ、通知表と、引き出しに入ってたノートとか。一応ロッカーの荷物も持ってきたよ」
「まあ、ロロお兄さま、すみません。ありがとうございます」
にこにことロロの手から荷物を受け取るナナリーは小さな白い手をしている。
「どうだった?変なことはなかったか?体は?」
「平気です。ご心配おかけしてしまって」
熱も下がった、とナナリーは微笑んでいる。
 ナナリーは体が弱い。元々気管支が弱いようで、都会の空気が合わず、東京に住んでいた頃はこうやってずっと寝込んでいたらしい。こちらに来てからは徐々にだが、学校に通えるくらいには回復した。
 ブリタニア一家は一流大手企業を経営していた。外国にも進出し、日本政界にも影響力を持つといわれている。元々戦前の財閥から、さらに今の社長の代でこれでもかと成功し、今では染めていない商売はないと言われているほどだ。しかしこう言っては何だが、今の社長はワンマンで、敵も多い。身内も例外ではない。妾が多く、子沢山。兄弟は多いが、その分家族は希薄な関係しか築けず、父親は仕事に忙しく娘のナナリーの病気すらどうでもいいらしい。名前さえ覚えているかどうか、といつかルルーシュがこぼしていた。ルルーシュの母親が持病で亡くなったとき、父親は病院にすら来なかったと。
 そんなブリタニア家に愛想を尽かしたルルーシュ兄妹が、母親の妹夫婦であるランペルージ家にお世話になることを決めたのも当然の結果と言える。ルルーシュははじめそれでもその誘いを前に気丈に振る舞っていたが、ナナリーの話が出てとうとう折れた。父親がとうとう姿を見せなかった母の葬式会場でのことだ。あのとき以来、ロロはルルーシュが泣いたところを見たことがない。









20081020『Fire Flower 1』